先週、近所の市立図書館に、久しぶりに行って、カメラの雑誌のバックナンバー数冊と、吉村昭のエッセイ「街のはなし」(文芸春秋 一九九六)を、借り出して、弓道大会引率の空き時間に読んだ。ここのところ、彼のエッセイを連続して読んでいる。 この随筆、「クレア」(文藝春秋)創刊の一九八九年から六年間掲載されたもの。十年以上前の文章である。この作者には珍しい女性雑誌への寄稿で、「恐るべき女性を納得させるものが、果たして書けるかどうか」(あとがき)と、本人も最初はかなり弱腰だったらしい。決して今風の作家ではないし、作者自身、「保守的な男」であると自己規定している。 例えば、女性を見るとき、子供の頃から、結婚したらうまくやっていけるだろうかという視点で観察する癖があったと告白している。好きな女の子がいて、でも、魅力的な中に、自由奔放な部分があって、子供ながら、家庭的に幸せな人生を送らないだろうということが予測できたという。後年、彼女は親戚一同、誰もどこにいるのかわからない行方知れずになったそうで、彼の推測は当たっていたのである。 彼は、そうした女性を非難している訳ではない。彼の女性観が、家庭的な人を理想としているということなのである。 ある女性のエピソードを紹介し、最後に、いい妻、いい母になるだろう結ぶ文章があった。しっかり自己管理でき、慎ましさを持ち合わせている人が、人間として素晴らしいと彼は思っているだ。 それは何も女性だけのこととは限らない。列車の車両間の扉を、大人は全然閉めないのに、しっかりと閉めた小学生に感心する話があったが、その態度を、人間として好ましく思っている、それと同じなのである。 読み終わるまで、発表誌のことは知らなかった。ただ、確かに、今回、女性話題が多く、ちょっと女性に気を遣っているなとは思った。 離婚が多くなったことに、昔は世間体などから辛い状態のままに置かれていたからで、現代の方が、女性にとって幸福だとか、高年齢結婚になったことに対しても、異性を見る目がなく、早めに結婚してしまうほうが可哀想で、三十台近く、落ち着きがでてから結婚した方が無理がないと晩婚を肯定したり、決して、昔はよかったの頑固親父にはなっていないのである。 だいだい、若い頃は、妻と喧嘩して「出て行け」と言ったものだが、いつの間にか、家は妻の城で、自分の居場所ではないことを実感し、最近は、喧嘩するとこっちが「出て行く」と言ってしまうと告白している人である。女性主導で、最初から白旗を揚げているような現代の若い男性の態度も正しい態度だと肯定しているくらいなのだから……。 ここで、彼が「鳥肌が立つ」について触れた回の文章を紹介したい。結末で、「あ〜あ。」と思ったので……。 最近のテレビで、芸能人が恐怖の時使うべきこの言葉を、間違って使っていると指摘し、
「テレビの出演者が多用していると、一般の人たちもそれに少しの疑いももたず日常語として使う恐れがある。少年、少女が国語のテストで、「鳥肌が立つ」の意味を「感動し、じーんとすること」などと書くかもしれない。」
と心配している。これ、もう、ここ5、6年で多くの人が気づいている事態だが、彼の指摘は、十年以上前のこと。そこに意義がある。 ちなみに、私は、テストにこそ出していないが、去年だったか、教室で「感激し鳥肌が立った」という言い方に違和感がないか聞いたことがある。既にして、4分の3は疑問を持っていなかった。 文末はこう結んでいる。
「オリンピックで優勝した日本人選手が台に立ち、メインポールに日章旗があがった時、「それは、日本人にとって鳥肌が立つ一瞬でした」などとテレビのアナウンスが言ったらどうしよう。まさに鳥肌が立つ思いである」
吉村さん、ご心配なく。ちゃんと教育を受けているアナウンサーは、まだ、そんなこと言っていません。 ただ、去年のアテネオリンピック、100m平泳ぎで優勝した北島康介なる選手が、試合直後のプールサイドでインタビューされ、「超気持ちイイ。鳥肌もんッスヨ。」と、感激の面持ちで、力を入れて語り、全国的に、何度も何度も流れただけである。あ〜あ。 直後、「鳥肌が立ったのは俺たちの方。感動をありがとう。」という祝福メールがオリンピック特番宛に殺到。マスコミは(NHKですら)何度も何度も紹介していた。 もうダメかもしれない。 北島選手は、「超」も「ナニゲに」も何気に(!)使う。つまりは、現代っ子なのである。今年、彼は日体大大学院生になり、コカコーラから高額でスポンサードされた。いずれは日本水泳界を背負って立つ指導者である。
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