ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。
内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。
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2005年05月18日 :: ベンチの濃密さ |
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通勤途中に小公園がある。いつ見ても人気がなく静か。ちょっと割を食っていると思うのは、すぐ近くに小学校があること。学齢児は校庭のほうで遊ぶ。 それにしても、いつも幼児の声が喧しい我が家の前の公園と雰囲気がだいぶ違う。滑り台などの遊具もそれぞれにあり、住宅地の小公園として、そんなに差がないように思えるのだが、なぜ、こうも人の匂いの密度が違うのだろう。 この季節、朝、この公園の横を通ると、木漏れ日が斜めから差し、芝生や遊具、ベンチをまだら模様に染めている。新緑の、グラデーションがかかった逆光が上から注ぎ、きらきら目に入り、美しい。 誰もいないのだけれど、二台ならんでいるベンチにだけは、なぜか、人間の意識を集める不思議な力を感じる。滑り台でも木々でもない。そこに人はいないのに、いるかのような見えない磁場を感じるのだ。 写真家は公園のベンチを撮る。そんな写真をよく見かける。この時、その意味がなんとなくわかったような気がした。写真家は、表現しようとして撮るのではなく、何かを感じて、惹かれようにシャッターを切るのだ。 おそらく、理屈としてはこうだ。ベンチにはドラマがある。家族の愛、恋愛、別れ、そんな情愛のドラマがそこで繰り広げられる。人がいない分、そんな様々な情の世界が複層的に連想され、見るもののイメージとして広がるからなのだと。 でも、そんな理屈より、人の気持ちの残り香のようなものが、アロマかなにかのように周辺に漂っている、そこだけ密度が違っているような感じ、その空気の濃密さ。それを、今日、ベンチを目にした瞬間、強く感じた、この一瞬の発見の心を、私は大事にしたいと思う。 椅子は、コンクリートでなく、鉄の枠と横木。背もたれが少し後ろに開いたクラシックな形である。
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