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ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。

 内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。

 

・XP終了に伴い、この日誌の更新ができなくなりました。この日誌の部分は、別のブログに移動します。アドレスは下記です。

 

エキサイトブログ 「金沢日和下駄〜ものぐさ〜」
           
http://hiyorigeta.exblog.jp/

 2005年05月01日
  「好きになってかまわない?」

 例の「問題な日本語」(大修館書店)を読んで、「全然」の肯定表現をどう説明したらいいのかが解説されていて、国語教員としては、助かった。
 「全然」は、通常、打ち消しがともなうので、例えば、芥川龍之介「羅生門」の中に、「この老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されているということを意識した」という文があって、こういうのを、どう説明すればいいか困っていた。
 一時期、これは誤用だから、芥川のミスだろう。触れないようにしようと、授業で、すっとそこを素通りしていた時期もあったのだが、途中から、打ち消しばかりでないという説も聞こえてきて、確かにそうかもしれないとは思っても、そのあたりをどう説明したらいいのか、「全然」、わからなかったのである。
 「全然」には、「まったく問題がない」、「あなたの予想とは反しているかもしれないが」というニュアンスがある。そのニュアンスで肯定表現があっても問題ないということらしい。
 そこで、この本に載っていた漫画をアレンジして、以下の二つの例文を出してみた。授業の枕にする雑談ネタである。

 

例文1 女「あなたのこと好きになってかまわない?」 男「全然。」
問題、この男は断っているのでしょうか。承諾しているのでしょうか。

生徒の答えは、全員、承諾のほう。それであたりである。「おれはかまわないよ」という返事である。これを間違うと、二人にとって不幸なことになる。

 

例文2 女「私のこと好き?」 男「全然。」
さあ、どっち? でも、これは単なる受けねらい。生徒に聞くまでもない。

 2005年04月30日
  通俗版「ゾウの時間ネズミの時間」

  先日、本川達雄「ゾウの時間ネズミの時間」(中公新書)からの問題を3年生にやらせた。プリントを配ると、「知ってる。確か心臓の話や。」という声が聞こる。その通り。生徒はよく知っている。
 ただ、今回は、車に免許がいるのは、車が不完全な機械だからで、人間や環境との相性をもっと考えようと訴えている箇所で、有名なところではない。生徒は知らない文章である。
 有名な箇所は、新書版でいえば最初のほう。何年も前の地元私立高校の入試にも使われていたし、大学入試にも何度も出題された定番の作品である。
 心臓鼓動が早いネズミは、行動が敏捷だが、その分、短命である。ゾウは鼓動がゆっくりで、そのため行動も鈍い。しかし、寿命は長い。
 生き物の一生に打つ心臓の鼓動の数は決まっていて、短いネズミはネズミなりに、あれで天寿を全うしているという趣旨だった。
 さて、数週間前のこと。ジムで、おっさん二人の会話が耳に入った。

 

「お前、今日は何をしたんだ?」
「おう、オレか。ランニング1時間や。」
「心臓、大丈夫やったかいや。」
「もうバクバクやった。」
「ふーん。無理するな。なんか人間って、一生のうちに心臓の打つ回数、きまっとるらしいぞ。お前、そんだけバクバクやったんだから、早死にするよ、きっと。」

 

 うーん、なんか違うような気がする。

 2005年04月29日
  待合室で 

 昨日、退院1ヶ月の診察に受けに、久しぶりに入院していた病院に行く。新年度に入り、整形外科医2人が交代。人事異動があったのだろう、外来の看護師さんの顔ぶれもかなり変わっていた。
 1ヶ月住んでいた住処(?)の安住感というか「自分の家」的な感覚から、ちょっとずつ他人の建物のような感覚に変わっていく感じがした。自分のものでもないのに、妙なものである。
 診察後の伝票待ちをしていると、入院中同室で、ほぼ時を同じくして退院した方と再会した。袖すり合うも他生の縁。どんな方か、入院中もそんなに親しくしたわけでもないが、ぽつぽつと言葉を交わす。病気仲間という感じで……。
 そういえば、前回、退院後10日くらいでここに来たときには、例の忠臣蔵のKさんの後ろ姿を見かけた。もうここにはいらっしゃらないだろうか。看護師さん、患者さん、知っている人がいる。それだけのことなのだが、外来だけで来ていた時と微妙に違う感覚である。
 診察が近づくと、中待合室という、診察室の前の通路に呼ばれる。
 そこに、車椅子で左足に補助具をつけている中年女性が待っていた。決して暗い顔をしていたわけではない。患者の顔というのは、みんな同じような顔をしている。絶望している訳ではないが、楽天的でもない、一種静かな諦観。
 彼女のほうが先に私のすぐ横を通って診察室に入った。
 しばらくして、扉が開いて、彼女が元気よく出てきた。
 顔が笑っている。病院の同じ顔の中で、一瞬の輝きのような笑顔。足下をみると、彼女の足に装着されていた補助具かなくなっている。
 よかったね。さっと私の横をまた通り過ぎていなくなったが、私は、そう心の中で声をかけ、また、じっと自分の名が呼ばれるのを待った。

 

 2005年04月28日
  列車脱線事故に思う2   塩野七生の随筆と「電車でゴー」を思い出す

 昨日の中日新聞のコラム「中日春秋」は、脱線事故についての話題で、塩野七生のエッセイ「ナポリターノ」が紹介されていた。十数年前、教科書に載っていて、何年間か生徒に教えた文章で、隅から隅まで何が書いてあるかよく覚えている。確か三省堂で大判の判型だった。懐かしい。
 イタリアの鉄道は時間にいい加減だが、日本の鉄道は2分遅れても、謝罪の放送が入るくらいで、すべてが正確。しかし、「きちんとすべてがうまくいっているうちはよいが、ひとつがダメになると全体が崩壊」してしまうのがわれわれ日本人ではないかと指摘している。
 戦争中、日本軍人として捕虜になることはあってはならない事態であるとして、捕虜になった後の教育を施さなかった。悪しき精神主義である。このため、一度捕まった者は、どうせ日本に戻っても厳罰が待っているからと、ぺらぺら軍事機密をしゃべって、米軍を訝らせたという。それが本当の情報か疑ったのある。
 塩野のフレーズから、昔読んだこの戦争中の話を思い出した。1分半にあくせくしたあげく、大事故につながった今度の事故も、過失ではあるが日本人のこの特色がでているのではないか。コラムも同様の論調であった。あんなに何度も読んだ短文である。私のほうが先に気づくべきだった、やられたという感じ。この塩野の指摘を見つけてきたコラム氏の眼力に敬服する。

  「車は急に止まらない」というが、全然止まらないのは、電車のほうである。以前、オマケで「電車でゴー」というゲームソフトの体験版が手に入ったので、それをインストールして、楽しんだことがある。
 電車は、レールの上を走っているだけ。ハンドル操作がない。車より自由度がない分、運転は簡単なように思えたのだが、とんでもなかった。何分、巨大で相当な重量である。一両30トンとかいうそうだから、10両編成で300トン。車約300台分である。まず、駅を発車するとき、フルパワーかけても、全然するすると動かない。じわーっとスタート。もういいというかなり前にパワーをおとしてやらないと、予定速度を超えてもスピードはどんどんあがっていく。
 逆に、下り勾配になると、適宜、ブレーキをかけて、常に制御下においておかないと、とんでもなく勢いがついて、慌ててブレーキをかけても、焼け石に水状態。ブレーキは滑るだけ、おいそれと止まらない。常に事前事前の操作が必要なのであった。つまり、「慣性の法則」とかいうやつである。 
 駅の停車ラインにしっかりとまるなんていうのは、ちょっとの練習では絶対に無理。手前で止まってしまって、再度、パワーをかけるやら、オーバーランして、急ブレーキをかけて、中の乗客が転倒するやら、ボロボロであった。これで、初級版だという。
 JRによると、オーバーランは、各社、月に数件の割合で起きているという。地元西金沢駅でも、昨日、あったそうで、これも、新人研修中の出来事だったそうな。
 夫婦二人とも、列車の運転がいかに大変か、このソフトでよくわかっていたので、今回の事故のことをお互い話しながら、夫婦の頭の中は、常に「電車でゴー」ソフトが動いていたことが、今日になって判明した。
 大事故に対する感想としては、実に不謹慎である。
 だが、大都市の通勤人と違って、めったに電車に乗らず、電車正面の流れる景色を、実景としてほとんど眺めたことのない地方人には、仕方がない連想かもしれない。今回のこの話題は、脱線ということで許して頂きたい……。

 

(亡くなられた方のご冥福を心からお祈り申し上げます。)

 

 

 

 2005年04月27日
  現場の力が落ちている   尼崎の列車脱線事故に思う

 一昨日、尼崎で列車脱線事故があって、今も大騒ぎしている。車輌が無惨にへし曲がり惨状極まりない。事故原因が特定できておらず、置き石説も有力なので、今のところ、何ともいえないのだが、前駅でオーバーランして、1分半の遅れを取り戻そうと、この運転歴1年に満たない運転手は、あせって、通常よりスピードを出していたことは間違いないようだ。
 3月は、土佐くろしお鉄道がオーバーランして駅に突っ込む事故が、その2週間後には、東武線竹の塚で、手動遮断機を間違って上げ、死亡事故があったばかり。
 鉄道ばかりではない。飛行機が許可なく離陸しようとして、あわや大惨事などの日本航空のミスも立て続けにあった。
 この日航の事故の時、テレビのコメンテーターが「最近の日本は、現場の力が落ちてきているのではないか。」と指摘しているのを聞いて、この「現場の力」という言葉が耳に残った。
 例えば、今回の事故の路線。私鉄との競合路線で、私鉄より速いことが売りになっていたという。昔は、列車の数分の遅れなど誰も気にしなかった。誤差のうちくらいに思っていたものだが、いつの間にか、正確無比が当たり前の世の中になってきていた。
 2週間前には、尼崎地区でJR西日本が、1秒単位の遅延状況調査を実施していたという。勤務実態調査や評定資料として利用することも可能な訳で、23歳の青年には、そうしたことも、プレッシャーになっていたろうと思う。
 機械のように正確。でも、動かしているのは人間である。
 踏切を間違って上げた係員もそう。開かずの踏切で待っている歩行者によかれと思ってしたフライングがこういうことになった。第一、時々しか来ないなら兎も角、何本もの線路が走り、過密ダイヤで右に左に行き来する列車を、人がミスなくさばくことのほうが神業のような気がする。人間がミスをしても、事故につながらないシステム作りこそが必要で、彼一人に全責任を負わせて終わりにならなければいいが……。
 日航のミス続きも、日本エアシステムとの合併で、ゴタゴタが続いていて、そちらで神経がすり減っていたためではないかという指摘もあった。

 現場での人的な「スキル」が落ちてきているということがまずあるかもしれない。
 楽器製作メーカー、ヤマハの取り組み。ピアノの製作には、職人芸的な勘に頼る分野がかなりあって、担当する団塊の世代の職人さんが、数年後から大量に退職になるという。このままでは、これまで通りのレベルの製品を維持できない虞れが出てきたので、今、そうしたマイスターの下、直接、若い社員がマンツーマンの指導を受け、技術の伝承を受けるシステムを作ったという(NHK「クローズアップ現代」より)。
 これなど、対策がとれたいいほうの例だが、物を作る職人の世界だから、ある意味、はっきりしていたのであって、普通の仕事ではそうではあるまい。自然に後任につながっていくものと放置されていているのが現状ではあるまいか。その結果、本当によく知らない人が増える。つまり、文字通り「現場の力」が落ちたのである。

 だが、多くは、人的能力が落ちたわけではないにもかかわらず……という場合ではないだろうか。
 時間的にも精神的にも余裕があって、はじめて全体が見通せるものである。過剰な、かつ空疎な仕事が、メインの仕事を蹂躙するように入ってくると、能力のある人たちの集団でも、その目先の対処に追われ、本務が疎かになる。多くの仕事人は、もちろん、疎かにしたくないので、個々人で誠実に対応しようと努力はするが、もう精一杯である。問題が起こらないように、最小限の努力で安全をある程度保つ、そのバランス点を考えはじめる。安全度は極端には下がらないが、少しは確実に落ちる。
 これは、安全ばかりでない。努力と効率の妥協点、少ない効率・多くの業績。どんどん、そうした視点で仕事をこなすようになっていく。
 全体を見通す力が組織全体として落ちて、硬直化するのも、同様である。全体で考え、どういうやり方が現場としても、経営的にもよいのか、検討して、その納得の上で運営していこうという力がなくなり、現場を知らない指導者が、外圧や、現場人間性悪説の論理で、一方的に、現場を締め付ける。しまいに、現場の声は死んでしまい、誰も声を発しなくなる。諦めムードが漂い、ため息まじりに、唯々諾々と追従するだけの現場になってしまう。「やれといわれれば、給料もらっている以上、やりますけどね」という態度である。現場で事故がおこるのは こんな時である。

 さて、我々の教育現場はどうか。年功序列が崩れ、能力主義が導入された。人事考課制度も試行中である。生徒による先生評価アンケートでも我々は査定される。うかうかしていられない。業績をあげなければ……。あくせく、あくせく。で、結局、疲弊するのは生徒たちのほうである。
 それにしても、本当に教員は忙しくなった。生徒とゆっくり有意義な(?)無駄話をする時間的余裕がなくなってきた。それだけで、結構、不登校などの問題も少なくなるのではないかと思うのだが……。私自身、十数年前は、結構、部活に顔を出していたのだが、最近めっきりそれが減っている。問題勃発の危険性は増大中である。結局、「現場の力」は、この業界でも、めっっきり落ちているのである。

 今回の事故。事故は事故である。直接の原因が究明され、対策が打ち出されるだろう。だが、それが、根本にある問題に対する対応をなおざりにし、対処療法だけのものであったら、逆に、なおさら現場をやりにくくするだけのものになるのではないだろうか。今から心配である。

 

 2005年04月26日
  使えないヘルスカード

 溜まりに溜まっていたビール券を、先日、ついに消化し終わった。あと大量に残っているのは、県内の薬局だけで使える「ヘルスカード」なる商品券の束である。
  例年、共済の会員への還付事業として、数枚貰うもので、何年も使われずに放置され、かなりの枚数が溜まっている。
 旧来の薬局が、大型ドラックストアにやられ、苦しい経営を強いられている。それを少しでも改善するために、公共性をもつ共済が協力したという側面もあるのだろう。趣旨自体は賛成である。
 それにしても、正直使いづらい商品券である。ドラッグストアでは悉く使えない。肝心の地元家内制手工業的零細薬局はどんどん潰れている。先年も実家近くの薬局が廃業した。昔からあったもうひとつのほうも、よくよく見たら、薬部門がなくなり、単なる化粧品店になっていた。
 それに、申し訳ないが、定価売りで割高である。わざわざ車を出して、遠くまで、高くて品揃えのない医薬品や関連品を買いに行くことはしない。
 ただ、調剤薬局では使える。最近の薬局は、前にも書いたように、医院に付設したかのような、調剤だけしているコバンザメ薬局が多い。その時、忘れずに持っていると、何とか使えるのである。
 先日のこと。
 処方箋を受け取って、数m先のコバンザメ薬局に行った。軟膏430円なり。500円商品券1枚出したところ。お釣りはでませんと言われる。実は前日、別の調剤薬局でお釣りを受け取っていたので、統一がとれていないことを指摘すると、申し合わせで、お釣りは出さないことになっているのです。ですから、その薬局が悪いのです。と怒ったように言われた。
 正直、あんまり気分がよくなかった。私が悪いわけでないのに。
 ということで、どんどん使う気が失せてくる商品券である。

 

 2005年04月24日
  死ぬときは(入院話題6)

  病院で寝ていると、夜、サイレンが遠くの方から近づいてきて、真下で音が止まる。今日も急患が運ばれてきたらしい。病院で寝ているのだなと実感する瞬間である。遅い冬の嵐。窓の風きり音の間に間に、ちぎれるような微かな断続音で最初は聞こえてくる。それが連続して聞こえるようになると、まず、目的地は我が仮の寝所である。幾晩か続くと、そんな微かな音もかなり早くから区別できるようになる。どんな病気で運ばれてくるのだろうか。
 日本人の八割が、病院のベッドで死を迎えるのだという。交通事故死で即死といった不慮の事故や、意識して自宅で死を迎える行動をとった人以外は、確かに死に場所は病院だ。天井をにらみながら思うことは、こうした天井の景色が、最後に目に入った風景ということになるのだろうかという感慨である。
 人は天井の何を観て死ぬのだろう。ボードのうねうねした模様? それ以外は、骨折した足などを吊るフックが三カ所ほどついていてる。あるいは、スプリンクラーの放射穴?それくらいである。眺め続ける視線の意味はまるでない。
 階下の病棟は、ターミナルケアの病棟であるという。内廊下から部分的に見える階下は、確かにこの階に比べて人の出入りがあまりなく静かである。エレベーターに乗っても、その階のボタンを押す人はあまりいない。整形外科病棟に比べ、回転が悪く、患者自体の出入りがあまりないせいもあろう。私もその階には降りたことがなかった。
 ある新米看護師さんは、「整形外科病棟は明るくていいです。」と、自身が一番明るく言っていたけど、入院している我々にとっては、どっちにしろ病気なのだから十分暗い気分である。だが、比較の問題として、やはり、棟全体の明るさはこっちのほうがあるのだろうなとは感じた次第。
 それにしても、死ぬときは、元気でぽっくり、本人も知らないうちにというのが一番いい。激烈な痛みを伴っての死、刻々と迫ってくる死に狂おしいまでに追いつめられての死というのはごめん被りたい。本当に辛そうだ。
 一瞬の衝撃で即死というのもあるが、即死だから痛くないかといえば、そうでもなさそうだ。
 昔々、こういうことを聞いたことがある。
 ギロチン台は、受刑者の苦痛を避け、一瞬に死を迎えられるように考え出された慈愛の処刑道具だという。でも、本当に一瞬のうちに死ぬことができるのか疑問をもった人が、処刑されるに際し、首が落ちても意識があるかどうか、ずっと瞬きをして合図を送るから、それで確認してほしいと頼んだそうだ。
 実際のところ、ごろん、と落ちた首は、しばらく瞬きをしていたそうで、結構、生きているみたいである。その間、痛くないのだろうか。

  この連想で、話はどんどん横ずれする。
  子供の頃、田舎で、さっきまで生きていた鶏を締めて夕食のめった汁を饗されたことがある。歓迎のご馳走なのだが、首を締める現場はさすがに見なかったものの、素人が捌いたので、少し鳥肌に羽毛が残っていて、それで、さっきまで、元気だったあの鶏であったことがわかってしまった。子供心に、可哀想で可哀想で、2年間ほど、かしわを食べることができなかった。大人って、なんと残酷なのだろう。
 なぜ、この話をしたか。実は、愚妻も、子供の頃、同じような経験をしていて、こっちは、首のない鶏が、かなりの時間、バタバタ庭を駆け回っているのを目撃したそうである。
 現場を見たくだんのガキん子はエーッと思ったそうだが、それを見せたこと自体、教育的なのやら非教育的なのやら。
 ところで、鶏肉は、美味しく頂けたのだろうか。私は聞くのをためらっている。

 

 

 2005年04月22日
  阿川弘之「亡き母や」(講談社)を読む。

 阿川弘之の作品は、ここのところ、まとまったものは、すべて単行本で買って読んでいる。ご老体故、矢継ぎ早に新作がでるという訳ではないが、時々、地味あふれるエッセイが上梓されたのを見つけると、嬉しくて、早速、買って帰る。新刊の単行本で読みたい作家というのはそう多くはない。あと何冊出してくれるのだろう。ご健康を祈念するばかりだ。
 八十をとうに超えた作者にとって、最後に確かめて置きたかったことは、遠い自分の懐かしい記憶を、事実として確定することであり、兄嫁と自分が死ねば、誰も知らなくなる亡き親の人となりを描いておくことである。そのことで、自分の短気な性格が母親からそもままきているのだということを同定したい。その願望だけでこの話は出来ているように書かれている。つまり、彼なりの死出の旅路の前のルーツ探しといったニュアンスである。作者は、冒頭で「広島あばあさんのことを子供たちに書き残して置いてやらう」というのが、モチーフであると述べる。子供とは、もちろん、テレビなどで活躍中の阿川佐和子さんのことである。

 それにしても、彼の本を見つけることさえ、ここ金沢では難しくなった。最近、何軒か本屋を回ったが、阿川さんの本は、文庫本を含め1冊もなかった。置いてある「阿川」姓の本は、すべて佐和子さんのほうであった。この現実をこの老作家はご存じだろうか。
 久しぶりに行った隣町の量販店は、日本作家のコーナー自体が大幅縮小されていて、以前、家庭の本棚にして6本分の幅をとっていたものが、3本分になっていた。村上春樹でさえ、数冊しか置いてない。
 この本、昨年5月新刊だったのを、どうやら見逃していて、そのまま、職場の近くの書店の単行本コーナーに、1冊だけつっこまれていたものを、入院中の試験外泊の日、たまたま見つけて救い出したもの。旧仮名で書かれた、しっかりした日本語の文章を読めたことだけでも今や僥倖である。

 ただ、少々、調査が遅すぎたという印象は否めない。多くの関係者がもはや故人で、広島ということで原爆で壊滅していることもあり、ほとんど事実に行き着いていない。そこで、その調査自体がこの小説の結構とならざるを得なくなってしまった。
 小説家の多くが、自己の父や母をテーマに小説を書き上げている。名作も多いのだが、残念ながら、この作品は、「分からなかった」が連発され、ちょっと中途半端な作品になってしまったというのが正直なところだ。

 

 2005年04月21日
  大嫌いな日本語「させていただく」

 毎週火曜日、NHK教育テレビで、池波正太郎の生き方について、山本一力なる作家が解説してくれる番組(「知るを楽しむ 私のこだわり人物伝ー池波正太郎、人生の職人に学ぶ」)があって、楽しみに観ている。30分の話が一つのエッセイのようで、彼の池波への尊敬具合が伝わってくる好番組だ。
 ただ、「では、来週は、池波正太郎のダンディズムについてお話させていただきます。」と言っているのを聞いて、何か、そこだけ気になった。
 今回は、そこで、この「させていただく」について考えてみたい。

 

  私は、「させていただく」という言葉が大嫌いなのである。敬語が二つ連なっていて、よほど相手が高貴な人の時以外は使わなくてもよい、かなり過剰な言い方だと思っている。現代で、高貴な人なんて、そう大層にいるわけはない。実際は、料亭や高級デパートなどの接客言葉として、それこそ「おビール」なみに、一部で使われていたに過ぎない。
 ところが、この言葉、ここ十年くらいの間に急成長。あちこちで聞かれるようになった。丁寧にすればいいというもんでもないのに、大安売りである。
 いくつかは書き取ってある。

 例1 あるテレビのニュースでの場面。ある経営者が犯罪を犯したため、青年会議所のトップが会見した時に言った言葉。「○○会員は、不祥事を起こしたため、本青年会議所より除名させていただきました。」
 なに遠慮しているんだ。誰に気遣いしているんだと、突っ込みたくなる。これは、「除名いたしました」「除名しました」で充分である。

 例2 あるファミレスでの張り紙。「当レストランでは、お煙草はご遠慮させていただきます」これは誤用というべきだ。「させていただく」は、自分の行為についていう言葉だから、これでは、食堂の職員は、客は期待しているかも知れないが、煙草は遠慮して吸いませんよという意味になってしまう。

 

 こんな変なのは、まあ、仕方がないとしても、例えば、三菱自動車がリコール隠し問題で揺れに揺れた時、新聞一面に陳謝広告がでた。その冒頭の言葉。
「我が社の車のことについてお話しさせていただきます。」
 これ、間違った言い方ではないが、なぜか引っかかる。「自分で悪いことやっていて、言いたいのだったら勝手に言えばいいさ。どうぞ御勝手に。」と言いたくなるのであった。
 そこで、表現についての解説が特色の「明鏡国語辞典」(大修館書店)で調べてみた。

 

「させていただくー(連語)自分の行為が相手の許容の内にあるという、へりくだった遠慮がちな気持ちを表す。しばしば相手に配慮しながら、自分の一方的な行動や意向を伝えるのに使われる」

 

 特に後半が、如何にもこの辞書の説明らしい。一方的に伝えるという点に、この言葉のズケズケとした性格がよく説明されている。辞書は続けて、

 

(表現)「「させてもらう」の謙譲語で、「致す」をさらに丁重にいう言い方。「させてもらう」は、相手の配慮が軽くなり、自分の意向を伝える側面が大きくなる。」

 

とある。確かに、偉そうな人に「〜させてもらうよ。」と言われたら、敬語は入っているけど、「〜するぞ、わかったか。」という命令調と同じと感じてしまう。それが、「〜させていただくよ。」になったからといって、そうニュアンスは変わらない。
 そもそも、辞書の説明の中にあった「いたす」は、「する」の謙譲語である。「努力をいたす所存です。」などと使う。この「いたす」、辞書のB番目の意味に、「「する」の古風で尊大な言い方」というのがある。例えば、「なにをぐずぐずいたしておる」(この用例、ほとんどテレビの時代劇の台詞だ。えらくわかりやすい。)。
 どうも、もとの言葉からして、尊大さをたっぷり含んだ言葉なのである。
 結局、この「させていただく」は、二つの敬語が重なっている、本来的には、丁寧極まりない言葉だったのだが、馬鹿丁寧な態度をとられると、尊大に映り、人は馬鹿にされたと思うという原理(慇懃無礼など)と同様なことが起こって、時代がさがるにつれて、偉そうなニュアンスが出てきたのだろう。
 だから、講演などの冒頭で、話し手が、「今日は〜について、お話しさせていただきます」と、丁寧に言われると、言葉的には何の問題もないにも拘わらず、私は違和感ばかりが残るのである。もともと、立派な人だから、その人の講演を聴こうと思って集まっているのだから、そんなに卑近にへりくだる必要はないではないか。「今日は〜についてお話します」で充分であると思ってしまうのだ。
 過ぎたるは及ばざるがごとし。

 

  この「させていただく」大安売りには、もう一つの問題がある。
 例の「さ入れ」表現である。
 スーパーのおねーちゃんが、「このお総菜、10円引かさせていただきます」なんていう。これ、もし言うのだったら「引かせていただきます」が正しい。
 五段活用の動詞は「せる」、一段活用は「させる」をつける。「引く」は、五段活用の動詞だから、「せる」のほうがつく。同様に、「やらさせていただく」ではなく「やらせていただく」が正しい。
 若者は、「させていただく」をつければ、すべて丁寧な敬語表現になると考えているところがあるようで、怖い先輩なんかに酒を強要されて、「飲まさせていただきます」なんて言っている。相手に対して、自分の行動をへりくだった意志の表現として言ったつもりなのである。本来、使役表現に「いただく」という敬語がつながっていたものであったものが、「さ」を入れることで、「させていだだく」というまとまった連語と合流してしまい、混合されて使われてしまったのである。
 結局、これは、「ら抜き言葉」が、「ら」を抜くことで、「れる」「られる」が統合されつつあるのと同様、こっちは、いらないものに「さ」を入れることで、「せる」「させる」が統合されつつある現象なのである。
 言葉は、どんどん単純化に向かっている。
 ただ、こっちのほうは、すでに「させていただく」という言葉が存在していた上に、言葉を付け足しているので、違和感のない人が多いという調査結果があるくらいで、「ら抜き言葉」に比べて、世間的に知っている人は少ないようだ。
  明日、生徒に「やらさせていただきます」ってヘンと思うかどうか、聞いてみよう。

 

 2005年04月20日
  中山恒「おれがあいつであいつがおれで」(旺文社文庫)再読。
 これは、病院の食堂(デイルーム)の本棚にあった。表紙の少々傷んだ文庫本。棚から一掴み、懐かしく読み返した。1979年4月より一年間「小六時代」に連載されたとのこと。四半世紀以上昔の「児童図書」である。
 この物語、映画「転校生」の原作になったことで知られ、私も、あの映画を観てから、気になって本のほうも読んだくちである。映画のほうの印象があまりに強烈だったので、本のほうは「子供向け」という先入観からか、流し読んで終わっていたような気がする。
 映画は、大林宣彦監督の尾道の情景描写が秀逸で、瀬戸内のローカル色が、男と女の体が入れ替わるという奇想天外な設定をしっかり地につかせていた。しかし、小説の方はそうした地方色はない。入れ替わったドタバタ自体が話の中心である。
 思春期にちょうどさしかかった子供が、体を入れ替わることによってお互いの性差を知るようになる。周りのかくあれという期待像も全然違う。いわば、この話はジェンダーに気づく物語である。しかし、物語はそれだけで終わっていない。できることできないことを知ることによって、相手を思いやる気持ちを持つようになる。つまり、思いやりに気づく物語である。そして、異性を思いやるとは、つまり、初恋の物語でもある。
 我々の世代に、あの映画を青春の宝物にしている男性は多い。私もそう。小林聡美が可愛かった。確か東京のどこかの二番館あたりではじめて観て感激し、後日、無性にもう一度観たくなって、遠く、二子玉川かどこか、多摩川べりの映画館まで、電車に乗って観に行ったことがある。行ってみると、そこは古ぼけた遊園地の一角にあり、うら寂しい雰囲気が漂っていた。映画を観た後、ちょうど近くのバス停で、下宿のある目黒駅行きのバスがあったので、かなり待って、それに乗って帰った。
 バスは幹線を走るかと思えば、小道に入り、私鉄の小駅の駅前に寄り、また幹線に出るを繰り返す。数えると四十数バス停。一体、いつ目黒につくのだろう、永遠に知らない小駅に寄り道し続けるのではないだろうかと、ラビリンス気分を味わった。
 何年も東京住んでいて、主要駅周辺は知っていても、少し中に入ると知らない場所ばかりである。時々知っている場所が現れると、ああ、ここに出るんだと安心するのだが、その時は違った。ずっと知らない街が続く。もちろん、延々乗っているのは私一人。他の乗客は乗ってきては降りるを繰り返す。
 その上、それだけ乗っていたにも拘わらず、均一料金というのが不思議だった。まだ市内にもかかわらず、どんどん料金が上がっていく、どこかの地方都市の独占バス会社とは大違いである。
 この文庫本を読みながら、私は、あの、うらぶれた映画館と、見知らぬ光景を窓越しに観ながら乗っていたバスの乗客、つまりは若き日の私を思い出す。あの映画を観に行かなければ、あの小冒険はしなかっただろう。また、もし、あのバスに乗ったとしても、印象には残っていないだろう。映画を観た、その心の緩み具合(?)で観た窓の景色だからこそ、すっと心に入って一生忘れられない光景となったのだろう。
 これ、映画とは全然関係がないような話だが、私にとっては、やはり、あの映画がなければ成立しない景色なのである。
 読んでいくと、映画の印象的な台詞がそのまま出てきた。それは大林さんがそのまま使っただけのことなのだけれど、ああ、ここを使ったのか、大林さんにとって、この話で、ここを使わなきゃと思ったんだなと、作品制作過程がみえるようで興味深かった。 
 ただ、残念ながら、多少の古さを感じた部分もある。
 元気なオレは、「あっ」と思った時、「ナムサン」と叫ぶのだが、こんな言葉、今や誰も使わない、確実に註がいる。(註…「南無三宝」の略で、「仏・法・僧にお願いします」の意)。
 他に、女の子はいずれ花嫁さんにいくのだからというような大人の意識が描かれているのだが、これも、昔ほど、世間で絶対的にそう思っている大人の数は減っているはずで、その結果、登場する大人はみんな古風な人たちばかりのように映ってしまう。
 あれから四半世紀。
 それなりに時代は動いたのである。
 2005年04月19日
  俵万智「百人一酒」(文藝春秋社)を読む
 入院中に酒が飲める訳でもないのに、酒のエッセイでもあるまいという気もしたが、作者は、女流歌人俵万智ちゃんである。気取った蘊蓄話で鼻白むこともあるまいと気軽に読み始めた。
 「朝日新聞」夕刊に連載されたもので、時にお店や酒の紹介も混ざるが、単なるガイドにはなっていない。その時その時の彼女の生活をうまく酒に絡ませて同時的に伝えている。エッセイストとして、つまり、書き物のプロとして、万智ちゃん、コツを掴んでいる、うまくなったなというのが正直な感想。
 それにしても、彼女は酒豪である。健康診断前日、お酒は「ひかえめに」と書いてあって、決して禁止と書いてないことに喜び、缶ビール1本、ワイン半本、ウオッカ2杯嗜んでいる(「人間ドック」)。これだけの量で、彼女にとってはほどほどなのかと、ちょっと驚いた。和洋の酒の蘊蓄も深く、酒の随筆を書いても充分な有資格者である。
 近年の話題は、彼女がゴールデン街で働いていて、未婚の母となるということ。去年だったか、インターネットのニュースになっているのを見つけ、驚いた。この新宿に働きに出たことについては、巻末「ゴールデン街アルバイト日記」に詳しく報告されている。
 この歌人、身を削って文学を紡いでいく、古い私小説型の体質の人だと、以前論じたことがあった(そもそも、文学者というもはそうしたものだともいえ、そこがライターではなく、歌人たる所以なのだが……)。今回のエッセイでも、そうした片鱗は、やはり、あちらこちらにふっと表出されていて、そこが個人的には興味深かった。
 彼女、世間的に名の知れた有名人で、それに乗っかって安全に仕事をつづけようとすればできる人なのだが、そうはしないだろう。彼女が創作を続ける限り、常識にとらわれない生き方をし続けるのではないかと思われた。
 あの時、ニュースを聞いて、万智ちゃん、ちょっと人生を誤ったのではないかと思ったのだが、今回、これを読んで、少し納得したものを感じた。
 2005年04月18日
  余は如何にしてテレビっ子にならなかったか2

 4日の話題に続ける。
 病院では、ラジオ、テレビ音声問わず携帯ラジオを専ら聞いていた。日常生活では、漫然と聞いているラジオ。その意味などということは、こうしたゆったりした時間進行の中ではじめて考えをめぐらすことができる。
 聞きながら思ったのは、音声を聞くことは、文字を人に読んでもらっているということと同義で、つまりは、読書と非常に近しい行為なのだということである。
 提出された言葉で、イメージを頭で膨らませたり、論理を追っかけたり。これら2点はまったく同じだ。しっかり頭を使うこともできるし、文字を読むよりも、ぼんやり聞いていることも出来る。そうした強弱があって、一生懸命文字を追わなければならない読書よりも便利だったりもする。
 違うのは、音だけなので、頭の中で漢字などの文字に変換する作業がどうしてもおざなりになる点である。字として、形として迫ってくる本に比べ、聞き慣れない言葉や同音異義語が多い漢語が出てきた時以外、そう文字を意識することは少ない。そのため、あまり「字」の鍛錬にはならない。
 もう一つは、本を置いて、しばしイメージに遊ぶというような、こちら側のペースで進んでいかない点である。どんどん話題が次にいってしまい、イメージを膨らませている暇がない。主導権はあくまで放送局側が握っている。
 そうした、劣る点は多少あるけれど、映像より、いわば知的な媒体であることは明らかだ。逆に言うと、読書の主体に及ぼす知的影響は、やはりもっとも重要なものであると再認識した。入院中手当たり次第本を読んだが、心に残る加減が、テレビなどとは根本的に違う。
 ノートルダム清心女子大学教授、脇明子氏は「視点論点」(4月5日 NHK教育)の中で、読書は映像の前に滅びゆくものなのか。否、そうではないとして、3つの観点を挙げていた。
 1、想像力(イマジネーション)
 2、書き言葉レベルのことばを使う力
 3、全体を見渡して論理的に考える
これらの点で、読書は映像に対して優位性を保つと擁護していた。
 まったくその通りだと思う。今の子供達に毎日接していて、不足していると感じることは、そっくりこの3つに当てはまることばかりである。

 2005年04月15日
  星が瞬く

 4月当初の課題試験に「(星が)瞬く」の読みを出題した。1クラスに10人ほど、「まばたく」があって、まばたくのは瞼でしょうと、あまり考えずに×にしていたのだが、あまりに多いので、気になって「広辞苑」を繰ってみた。
 どちらも漢字は「瞬く」である。「まばたく」は「瞼を開けたり閉めたりすることすること」とあり、次に「またたく」とも説明されている。
 「またたく」のほうは、「目叩くの意」とあり、@は瞼の、Aは星や灯火の、BはAのような状態で生きながらえているという3つの説明があった。
 このからわかること。語源的には、両方とも目の開閉からきている。このため、目の開閉はどちらを使ってもよい。但し、星は「またたく」のほうだけである。
 私の採点の判断は間違っていなかったことになる。
 さて、では、インターネットで検索である。「問題の日本語」(大修館)によると、ネット上で、フンイキ(雰囲気)をフインキと誤記したものが大量にあるそうだ。しまいに、辞書会社に、フインキという単語さえ載ってない辞書はどうなっているのかと、若者からお叱りのメールをもらったという。
 それならと、私も「星がまばたく」でやってみた。約百件のヒット。思ったより少なかった。一部短歌などに使われているのは、「比喩表現」とみるべきなのかも知れない。もし混同しているのなら、その歌人の言語感覚って……。惨。


 

 2005年04月14日
  季節を知る

 春まだきの時節に入院して、3月下旬に退院したので、退院したとき、季節が違っているだろうということは予測できた。途中、二度の試験外泊もあったので、退院の季節的な違和感は余りなかった。 
 ただ、空調管理が徹底された中にいるので、その日その日の寒暖の差がよくわからない。夜、見舞いに来る愚妻の「今日は極端に寒くて閉口した」などという報告に、全然、実感が伴わないので、そうした会話は弾まなかった。もちろん、窓際の席だったので、天気はわかる。しかし、それは絵のようなものであった。
 ただ、夕暮れがせまるころ、窓の冷気が下に降りてきて、体が冷えはじめる。カーテンを閉め、布団をかぶり直す。その瞬間が私にとって外気温との唯一の接点で、まだ季節は寒いのだということに気づくのであった。 

 

  窓下の 冷気緩みて 退院す  俊建

 

 さて、今日は温暖な日なので、頑張っていた桜も散り始めた。はじめは、枝付きが悪かった花自体がポトリと落ちている。夜半の風でも強かったのだろうか。ちょうど、木の下半円7〜8mにぽとぽとと。避けて歩くほどの元気はない。まっすぐに踏み敷いての通勤である。花びらがひらひら散りはじめるのは、それから後なのだろう。これも発見だった。もう耐えられなくなってという風情で花びらが散る。

 

  桜花 踏みて気づけり 夜来風   俊建

 2005年04月13日
  杏よ燃えよ

  9日(土)、金沢ではフェーン現象で気温が二十八度にも達し、一気に桜が咲いた。10日(日)には、一番手近な桜の名所(?)である住まいの前の小公園の桜をバックに、妻と記念撮影をする。デジカメなので、印刷して、その日のうちに写真アルバムに納めることができる。アルバムを開いて何頁か遡ると、同じ場所で撮った桜の下の写真がある。桜写真から次の桜写真までが一年間の出来事なのだなという気持ちで観ていることに気づいた。桜から桜が一年。日本人は、自然とそうした区切りをしているのではないか。この美しい桜を、来年は無事観ることが出来るだろうかという詩歌は、日本では枚挙のいとまがない。
 11日から花冷えの日が続いて、満開が続いている。寒くて花見には不適だが、その分、花は長く生きる。このアンビバレンツな感情を日本人は常に味わってきているのだろう。

 今年の入学式(8日)の時は、桜はまだだった。校門近くに白い花が付いた木があって、それが、お祝いの日らしさをたたえていたのだが、私はすぐには何の花かわからなかった。その識標に「あんず」と書かれているということを小部屋で同室の同僚から教えられた。私が前日に観た職場の横の歩道に咲く花も同じような咲き具合だったので、ということは、あれも杏だったのではないだろうか。無教養のせいで、HPに間違いを書いて、とんだ恥をかいたのかもしれないと、慌てた。
 私は、そこで、杏について調べはじめた。だから、ここ数日、一つの花にこだわって過ごしたことになる。

 

 【杏の花】からももの花 花杏 杏花村(きょうかそん) 
 梅に似た落葉高木で晩春に白色または淡紅色の五弁の花を開く。一重咲きは果樹として栽培されるが、八重咲きは実をつけないので花の観賞用である。東北や信州が主栽培地であるが花の時期には一面花色に埋まり素晴らしい景観となる。 有名な句に『一村は杏の花に眠るなり 星野立子』がある。(PC俳句会「歳時記」)

 

 杏の木は、桃と梅、梅と杏の接木で、桜の少し前に咲き、花びらは桜より丸いが、やはり、非常によく似ているそうで、インターネットの投書にも、「梅のような桜のような綺麗な花ですね。教えてもらわなければ判断がつかないと思います。」といった趣旨の書き込みが多くあった。見まごうたのは自分だけでないようで、少し安心もした。ちょうど、長年の友人から見舞いの電話があったので、この間違えたという話を持ち出したら、桜とは幹の肌あいが違うよと教えられた。
 杏といえば、犀星の「小景異情」その六を思い出す。金沢の人は、犀星碑に刻まれている(一部省略あり)ので、ほとんどの人が知っている詩である。

 

  あんずよ花着け
  地ぞ早やに輝やけ
  あんずよ花着け
  あんずよ燃えよ
  ああ あんずよ花着け

 

「小景異情」は各連色のイメージがついていて、その一は「黒き瞳」と「白魚」でモノクローム、つまり色のない世界からはじまって、その二は「夕暮れ」、その三「銀の時計」その四「緑」その五「すももの蒼さ」と続く。
  最後の連、その六は「あんずよ燃えよ」とあるので、私は、頭の中で赤い色をイメージしていた。白や薄紅色では「燃えよ」の感覚がでないせいである。それに、その六は、その五で一度挫折しかけた詩への心を、杏の花に託して自ら奮え立たせる自分への励ましがテーマの連、どうも白やピンクでは感じがでないのである。
 その解決策として、杏の額が桜より真っ赤なので、その部分で言っているのかもと理屈をつけてみたけれど、やはり無理がある。
  色々調べてみると、「杏の里」のサイトで、「最近は実が大きい品種が多くなって、ピンクが強い在来の品種が切られてしまって、薄桃色に染まるといった風情が少なくなった」という記述を見つけた。どうやら、杏仁採取が目的で品種が変わり、杏の花はどんどん白化してきているようなのであった。
 昔はどうだったのか。中唐の詩人、白居易の詩を見つけた。

 

  「遊趙村杏花」(趙村の杏花に遊ぶ)        白居易

 

 趙村紅杏毎年開  趙村の紅杏、毎年、開く。
 十五年来看幾廻  十五年来、看ること幾廻ぞ。
 七十三人難再到  七十三の人、再びは到り難し。
 今春来是別花来  今春来るは、是れ花に別れんとして来る。

 

 白居易は七十五歳で亡くなるので、亡くなる二年前の作である。この花を来年観られるだろうかという老いの感慨を、白居易は「杏花」に託して詠っている訳で、同じ季節に、同じような花を観て、思う感慨に和漢の違いはないようである。あるいは想像するに、あれだけ、平安びとが愛した詩人である。桜を愛でる習慣は、時代が下ってからのものだから、もしかしたら、白居易の杏にたいする美意識を、日本人が、似た花、桜に託して述べるようになったのかもしれない。
 洛陽の近くの趙村は杏の名所だそうで、「紅杏」というからには、一面の赤色だったのだろう。それが、村全体を包んでいる。確かに「燃える」ようであったはずである。
 だから、犀星の頭の中では、今 我々が思っている杏の花の色よりも、おそらく、かなり赤い色調で、杏の花を捉えていたとしてもそんなに不思議でないことが知れたのである。

 

 12日、校門近くの杏は花が終わって、赤い芽を枝中につけて真っ赤に見えた。ところが、建物横の木はそういうことがなかったのである。
 どうやら、最初に梅だと思っていた木は、やっぱり梅だったのである。ぐるっとまわって、元に戻っただけ。でも、色々勉強になった数日であった。杏に感謝。
 

 

 2005年04月11日
   週刊誌買ったのは久しぶり(入院話題5)

 入院中、ようやく立って歩き始めたばかりのころは、ハードカバー本を読む気にならなかった。そこで、リハビリを兼ねて、コンビニ形態の1階売店までいって、「週刊現代」(講談社)を買ってきた。自前で男性週刊誌を買うのは何十年かぶりのことである。私の場合、週刊誌といえば、ラーメン屋さんで読むものというイメージがある。
 自腹であるからして、読む心構えが違う。丁寧に隅から隅まで読む。
 一時期に比べて、グラビアが過激でなくなっている。確か、露出競争は止めようということになったと聞いたことがある。五木寛之のエッセイ「新・風に吹かれて」は、室生犀星の金沢市立菊川小学校校歌の話。地元話題だけになかなか楽しい。この前、ラーメン屋で、彼の鏡花賞裏話を読んだけど、つまり、あの時読んだのも「現代」だったのだと気づく。何という週刊誌を読んでいるのかさえ、分かってもらえていないということだろう。女性誌はもっと似たり寄ったりで、女性の方は区別ついているのかしら。
 でも、思ったよりいいエッセイが多い。各界の有名人や一流どころが書いている。講談社だからということもあるのだろうか。週刊誌侮れずという感想。
  調子に乗って、病棟の食堂の書棚に置いてあった「文藝春秋」(2004.12月号)も読んでみた。あまりに有名な月刊誌だが、自分で買ったことはない。今の感覚では、あの分厚さにまず手をこまねく人も多いのではないだろうか。これも最初の頁から、しっかり観たのは初めてだった。最初に各界の著名人のエッセイ、次に、政治・経済・文化の記事があって、後半は医療・健康の大特集。記事が長いだけで、項目立ては週刊誌と同じである。ないのはスケベ方面だけ。
 政治の話が多くて、ちょっと高級というイメージがあったのだが、結局、週刊誌の月刊版なのだということを、今回、発見(?)した。

 

 2005年04月10日
  「かぜさそふ〜」手術に行くときに詠む歌?(入院話題4)

 大部屋病室には、色々な人が入院してくる。Kさん(72歳)は、農業の方。作業中に動けなくなって入院。脊椎狭窄症で手術ということになった。私の方は、手術を済ませたリハビリ期で、病院ではちょっと先輩になる。他の同室の人たちと一緒に、手術に関して多少のレクチャアをした。
 当日。看護師が麻酔を効きやすくする注射を打ちに来て、いよいよ手術室にいくことに。その時のKさんと看護師との会話。
  Kさん「『風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとかせん』やな。」
  看護師「Kさん、それ何?」
 Kさん「手術するときに詠う歌や」
  看護師「Kさんつくったん?」
 Kさん「違う。忠臣蔵や」
 看護師「討ち入りの話?」
 Kさん「そうや」
 看護師「???」
 端で聞いていて、全然噛み合っていない会話に、こっそり吹き出した。彼女は何故、急に患者さんが和歌を詠んだのか、それが討ち入りとどう関係しているのか、さっぱり分からなかったに違いない。
 ガラガラと、ベットの移動開始である。
 最後に、私が声をかけた。
 「Kさん、頑張ってね。でもね、切るのはお腹でなくて背中だよ。」
看護師さんにわかったかしら?

 さて、エピソードとしては、これで終わり。今回、この文章を書くために、正確に浅野内匠頭の辞世の歌を書こうと、ネットで調べると、ちょっと困ったことになっていた。「いかにとやせん」と「いかにとかせん」の二種類の記述がある。
 「か」と「や」。どちらも疑問・反語なので、間違いではない。和語の場合、「か」のほうが、強いニュアンスで、疑問反語詞を先に伴うことが多く、また、主に自分のことに使うという傾向があるので、ここでは「か」にした。「や」のほうが聞き慣れた表現なので、そちらに引きずられたと私は解釈したのだが、正確なことは分からない。ついには、古い「国歌大観」の目次を繰ったのだが、出ていなかった。(「国歌大観」なんて、正直、何十年かぶりに開いた。その歳月の遠さに、自分でも吃驚。学生時代以来かもしれない。)
 日本史上、あまりに有名な歌だが、文学作品として認知されている訳ではないということなのだろう。まして辞世歌である。
 最後に、参考までに、現代語訳を掲げておこう。
 「風に誘われて散ってしまう桜の花びらは名残り惜しいものだが、自分はもっと強い名残りのくやしさを心の中に残している。この自分の気持ちをいったいどうしたらいいのだろうか」
 春の桜に託して、上の句で自分が切腹することをいい、下の句で、本懐を遂げることができなかった無念さをいっている歌である。

 あれ? ということは、もしかしたら、Kさん、手術が失敗して、死亡なんてことになったら恨みが残りますよと、看護師さんを脅かしたつもりだったのかもしれない。

 

 2005年04月09日
  印象派の絵画をじっと観る(入院話題3)
 入院の前半に入っていた個室には、モスブルーとモスピンク基調の、パリ郊外あたりの水遊び場の絵が掛かっていた。一見して印象派だとわかる色調である。病室横の洗面場にはルノアールの「ムーランドギャレッド」(部分)が。病棟のところどころに掛かっている絵は、どうも印象派かそれに類したものばかりで、これは趣味がいいと好印象であった。
 ベッドから見えるのはこの絵くらいのもの。飽かず眺めた。手前にボートの群れ、水の上には艀(はしけ)が渡してあって、左にはバッスルスタイルのご婦人数人、右には話をしている水着の女性と男性。木々が深くそれらを覆っていて、右奥の方から明るい光が漏れている。
 モネらしいとあたりはつけたのだが、なにせ寝たきりで絵に近づこうにも近づけない。見舞いの妻に観てもらう手もあったが、こういうことは自分で確認しようと特に頼まなかった。だから、立ち上がって一番最初にした仕事は、トイレでも何でもなく、右下に書いてある絵の作者のサインを確認したこと。はたしてモネであった。こんな時、自分の教養を実感できて、ちょっとうれしくなる。
  それにしても、こんなに一つの絵をじっと毎日毎日見つめたことはない。複製で、窓からの光を浴びてちょっと色あせている。でも、長い間眺める絵として、この絵でよかった。バッスルスタイルのこの女性たちどんな話をしていたのだろう。どんな気持ちでモネはこの景色に対峙していたのだろう。意識は時空を超える。
 最近、展覧会などで絵を見るたびに、これが、家にあったら、一生眺めても飽きない絵だろうかと思うことが多い。いいかもしれないと思う絵がいい絵といった評価を、表向きはともかく、内心では下しているような気がする。
 絵の鑑賞は、その決定的な一枚探しの旅のようなものかもしれない。
 
 2005年04月08日
  梅が散り、桜が……。

  昨朝、職場の横を、ゆっくりゆっくり、新年度の荷物を抱えて歩いていると、歩道の石畳に、白い丸い斑点状のものが……。最初は、ぱらぱらだったのが、数m歩くと、一面に。すぐに花びらだとはわかったのだが、桜は今年は遅くてまだのはず。よいしょと顔を上げると、そこには、だいぶ色褪せた白梅が風に揺れながらたくさん縮こまっていた。
 梅の木がそこにあることさえ忘れていた。そして、何よりの発見は、梅の花びらがまあるいこと。花びらというより、水玉模様という感じである。
 俳句の心があればなあと思う。最近はよく思う。社会的なことより、身近な自分のことが大事。内面の充実を大切にしたいと思う。
 腰を痛めた人は、同じような歩き方をする。あまり歩幅を広げず、少し両足を広げ気味にして、コトコトといった感じで歩く。転ぶのが恐怖なので、足下が気になる。視線は下向きに。それが陰気に映るらしい。でも、今回は下を向いていた効用があったというもの。
 今日は入学式。昨日の暖かさで、東京の桜は満開という。金沢でも、昨日まで臙脂色に染まっていた桜の枝に、今朝は白いものがぽつぽつ混じりはじめた。歩いているとそんな変化がはっきり見える。
 梅の花の落下と桜の開花。時期的にこんなに近いものだったのか。今年特有のものなのか。その辺のことはよく分からない。何分、新米である。

 

 2005年04月07日
   バリウムを飲む

 一昨日は、年に一度の定期検診の日であった。
 気持ち悪くて仕方がなかったバリウムも、昔に比べれば、ずいぶん飲みやすくなって、問題がなくなった。(昔はほとんど涙目になって飲み込んだものである。今は、飲むことより、消化器系に負担なくさっさと排出してくれるかの方に気がいく。)
 しかし、あの可動式の、身を預けるベット状の機械だけは、ずっと苦手のまま。元気なころから、特に横のバーをもったまま頭のほうがさがる逆立ち姿勢は、かなりの腕の力が要求されるので、辛い姿勢だと思っていたが、腰が痛くなってからは、もう<恐怖の対象>でさえある。特に去年は、痛さの真っ盛りだったので、ゴリゴリ可動して体の重心が移動する度に、イタタタタと呻いていた。
 一昨日、検査車の待合いで、年寄りには支えきれるのだろうか心配という話をしたら、「耐えきれず頭から落ちるようでは、おそらくどこか悪いのだろう、それで、病気か元気か判断するのだろう。」という、ちょっとブラックなジョークが出た。「ホント、もし怪我でもしたらどうするんだろう、検査のために病気になるようなものだね。」と別の人。
 「それって、腰が痛くて長く座っていられませんと医者に訴えるために、3時間も待合室の椅子に座って待っているようなものだな。」と、私が合いの手を入れると、なんとこれが一番受けた。
 でも、それって事実そのまま。ちょっと悲しかった。

 

 2005年04月06日
  愛・地球博開幕  環境と夢と 

 

  9日に、愚妻が母親と愛知万博を見に行くことになった。今、ネットで一所懸命下調べに余念がない。

 ちょうど退院の時期と、万博の開幕が重なったので、連日、マスコミは万博の会場案内など流して喧しかった。何年もたつと「入院=万博」で、いつ手術したのかを思い出すことになるような気がする。
 以前、家族で信州へ奮発して大贅沢旅行をした。その時、潜水艦なだしおの衝突事故があって、連日どの旅館に入っても、テレビでそのニュースをやっていた。そのため、あの時は贅沢したねと話題に出るたび、次に、そういえばなだしお事故やっていたねと、きまって話は続くのであった。まあ、これは、個人的事件を社会的事件と繋げて、年を記憶に繋ぎ止めようとする無意識の人間の常套行為なのだろう。
 ところで、そのニュースの中で、「大阪万博をご存じの方はかなりのお歳の方で〜」とテレビの若いアナウンサーが発言していて、これはちょっとあんまりだった。大阪万博のことを強烈に覚えている人は、大人よりもむしろ子供だったはずで、とすれば、40代が一番懐かしい世代ということになる。そうか、「かなりのお歳」かあ。
 その「かなりのお歳」の我々の世代、ほとんどの子が大阪に行って来た。いかない子供の方が稀。私の父親は、でも、「親の収入でいくのではなく、お前が大人になって、稼いだ金で、自前で海外の万博に行って来なさい。」という理屈をこね、つれていってくれなかった。夏休み中に行った子が多くて、夏休み明け、万博話題で盛り上がる友達の会話に入れなくて、結構、傷ついた記憶がある。不憫に思った友人が、各パビリオンで押したスタンプ紙を何枚かくれて、でも、それが、また、なんだか悲しかったような……。
 あれ、なんでいかなかったのだろう。本当に「自力で」思想だけだったのだろうか。なんだか、所謂「大人の都合」ってやつが入っていたような気がする。
 もうひとつ。これも、テレビでのこと。アナウンサーが「愛知博。愛・地球博」と言い換えていて、あ、と気づいた。これ、単なるダジャレだ。チを愛のほうにもっていくと<アイチ>となる。有名な話なのかもしれないが、おいおいダジャレかよと、「チョットなあ」感あり。
 さて、この万博。ベルリンに続いて環境博だという。造成に関して、もすったもんだがあったのは周知の通り。いかに地球環境を保全して、長く地球丸を保たせるかがテーマだと思っていた。大阪万博では、バラ色の未来が提示されていて、日本の大手企業が悉く参加、フジパン館なんていう食品会社のパン型風船状パビリオンまであった。今回は企業ゾーンは大手だけ。森も多く、建物だらけではない。目標入場者も前回の六千五百万人に比べ、二千万人弱とえらく控えめである。
 しかし、そのわりに、テレビで派手派手しく紹介されているのは、例えばトヨタのロボット。二足歩行で、格好だけでなく実際に吹奏する音楽演奏ロボットや、タイヤのホイールベースがスピードに応じ変化する未来の一人乗り電気自動車など、大阪の時と比べて、あれから、ここまで人類は進化しましたと紹介されている。
 入場者も、そうしたものを観たくていくのだろう。トヨタ館は大人気で予約が一杯である。
 でも、どこが環境なのだろう。我々はイベントに「夢」を期待する。博覧会は本質的にそういうものだ。真の環境への行動を主張すれば、夢をセーブすることになる。どこをわれわれは我慢しあうかというようなテーマになって、人の欲望(夢)と環境維持との折り合いという現実的な話題になってしまう。もちろん、欲望と環境の一致など画餅にすぎない。つきつめていけば、そもそも博覧会自体の存在理由さえ危うくなってしまう。
 環境を主張しつつ、しかし、バラ色の浪費型近未来の夢をも紡ぐ。こうした自己矛盾の中で、客足低調な万博は淡々と開催されていくようである。
 何年か後、子供たちが、自分があれをした年はたしか万博の年だったと記憶を繋げてくれるかは、かなり心許ない気がする。

 

(撮影愚妻 4月9日夕刻)

 2005年04月05日
  余は如何にしてテレビっ子にならなかったか(入院話題2)

  入院中、テレビっ子にはならなかった理由。それは、テレビは意外に神経の集中が必要だということがわかったから。
 最近はどの病院でもそのようだが、テレビカードを購入して観る有料システムになっている。計算すると、なんと1分1円近くかかっている。ボーとして画面を見ていない時や、同じ方向に向いているのが辛くなって窓側のほうを向いて音声だけ聞いていることも多く、ずっと画面を観ていること自体が、体力が落ちている身には、意外に苦痛だった。それに、十分近くある番組から番組への長いCM中にも刻々と料金が落ちていく(数字が赤々と光っていて、それが減っていくのが精神衛生上よくない)。何でCMまでお金をとるんだとか、しっかり観ないともったいないぞとか、そういう気持ちでますます負担感をつのらせる。それなら、テレビ音声付きのラジオを聞き流していた方が精神的に気が楽だという結論になって、ラジオでテレビの音声だけを聞いていることが多かった。
 さて、映像がなくて、不便は感じなかったか。
 答え。なーんにも感じなかった。それで情報としては必要充分であった。映像の方が情報量が膨大のような常識があるが、それは、コンピュータ上、デジタル上の情報量(ビット数)のこと。本来的な(心臓部と言い直してもいいかもしれないが)、そうしたコアな部分は、結局、我々は音声でのほうで理解しているのである。

 

 2005年04月04日
  「水菓子」に文句をつけるー「問題な日本語」(大修館)を読む。
 今、プチ「日本語」ブームである。「問題な日本語」(北原保雄編 大修館書店)がこの種のものでは珍しく、数十万部のベストセラーとなって、長期的にチャートを賑わせている。入院中の軽い読み物として、私も楽しく読んだ。もともとは「明鏡国語辞典」(大修館書店)の現場教師向け販促冊子「明鏡 日本語何でも質問箱」(非売品)が大好評で、それを書籍化したもの。冊子のほうは、もらった当初、これは面白いと、私も授業のネタにして何度か使ったことがある。日常会話の「問題ナ日本語」を「ナニゲに」使っている子供たちには、その言葉のどこが変な表現であるかさえ分かっていないことが多い。変だと思う人は何人いますかと挙手させてみて、逆にそのことがはっきり分かった。ヘンだと思う生徒が皆無の場合、まず、変なのだということから説明せねばならず、興味をそぐ。生徒なりに「ちょっと変かも?」と思っているあたりの言葉を解説することが、教育的には有効なので、そのあたりの選択は、かなり「ビミョウ」(彼ら流にいう場合、発音を平板化するように)である。
 たとえば、今、使った「ナニゲに」は、「何気なく」の変化であるが、打ち消しを省略したら、意味は反対になってしまうハズなのに、なっていないところろが変、と解説すると、これはすんなり理解してくれる。
 この本、教員として便利なのは、帯に「ヘンな日本語にも理由がある」とあるように、なぜそうなったか、どうして間違いなのかが詳しく説明してある点である。単に正解はこうですと書いてあるだけでは、生徒に自信を持って解説してあげられない。
 今回、読んでみて、言葉とは、いくら語義的に間違っていても、みんな使ったら正しいことになる訳だから、グレーゾーンの言葉も多く、今後の動向次第「みたいな〜」(これも平板に発音のこと)ところがあるということ、つまり、断言できないものが多いことに、「ヘー」(これも平板に。でも、ちょっと古いかな?)と思ったことだった。
 書籍のほうは、途中、コラム的な小記事や、結構笑えるヘタウマ漫画が挿入してあって、読みやすく飽きさせない。
 そういえば、先日、久しぶりに上得意様になっている例のドラッグストアにいった。季節柄、お菓子売り場の平台にゼリー類が山積みになっていたが、そこに、手書のポップ文字で「水菓子」と大書した看板が……。ちょうど、そこに店員さん(薬剤師さんかも)に、とうとう、「あの、この看板違ってますよ。水菓子とは、「くだもの」のことで、決して水っぽいお菓子ではありません。」と注意してしまった。彼女、最初はぽかんと半信半疑の呈だったようだが、買い物を済ませ、会計をしている時に再び現れ、「ご注意くださり有り難うございます。店長に言っておきます」とのこと。
 私、「もう何年も前から、お宅のチラシがそういう表記になっていました。店長ではなく、お宅は全国チェーンなのですから、本部発行のチラシのほうを直さないとね。」と言うと、「はあ、一部上場企業なのですけどね。」と、意味のつながっているようないないような返事が返ってきた。
 で、つい何日か前、チラシが入った。めでたし。「水菓子」の項が消え、ゼリーは「お菓子」の分類にはいっていた。但し、油断は出来ない。お菓子は4つしか特価品がなく、単に纏めただけかもしれない。
 ちなみに、売り場の看板は外されていた。ただ、それを吊り下げていた金属の棒とフックが淋しく裸にされてそのま佇んでいた。
 なにか悪いことしたっけ? 俺。
 2005年04月03日
  大家さんのバニラヨーグルト(あのころ3)

  骨のためには「カルシウム」。乳製品に多く含有されているということで、牛乳やチーズ、ヨーグルトを常時冷蔵庫に入れるようにしている。
 ヨーグルトと言えば、いつも思い出すことがある。
  学生時代に住んでいたアパートは、大家さんの家と同じ敷地に建てられていた。大家さんは大工さん。昔気質の職人さんといった感じの人で、朝、下宿の隣の屋根付き駐車場から軽トラのエンジンをかけて仕事にでるのだが、学生の寝坊助は、その音で起こされて閉口したのを覚えている。途中、二階が空いたので、そこにすっぽり引っ越した。垂直移動である。

  付近の家の多くは、その昔、彼が建てたとかで、どんどん建築メーカーの住宅にとって変わられてはいたが、大家さん流の建物の匂いがあって、ご近所を歩くと、この家は「大家さん作」だろうなと、どことなく判ったところが面白かった。ちょっと無骨で昔風だけど、頑丈そうである。
 奥さんは、如何にも職人さんの奥さんといったちゃきちゃきな人なのだが、ある日、呼ばれて、ヨーグルト多めに作ったからと、お裾分けをいただいた。
 そもそも、田舎者の私には、ヨーグルトといえば、固形のものしか知らなかったので、いただいたものが液体であるのこと自体が珍しかった。それを飲んだら美味しいこと美味しいこと。なんてハイカラな飲み物なんだろうと大感激した。大工のおかみさんとデザートヨーグルト。さすが、東京の人ってモダンなんだといたく感心した覚えがある。もう四半世紀前の記憶。
 今から考えると、おそらくバニラエッセンスがたっぷり入って、ミカンのシロップ缶詰とあわせ、房をばらして散らしたくらいなものだったのだろう。私はアイスクリームでもないのにアイスクリームの味がするのが不思議でならなかった。アイスクリームを溶かしていれたのだろう、なんて手間な料理なんだと感激していた。
 当時、バニラ風味がバニラエッセンスなるもので簡単につくということさえ知らなかったのだから……。後であの小瓶の存在を知り、なーんだ、ちょっと反則だ、なんて思ったりしたこともよく覚えている。

 2005年04月02日
  時間がたつということ

 3月31日、最後の病気療養日。午前のジムから帰ってきて、昼食を作りながら、TV「笑っていいとも」を観ていたら、タモリが、年とってくると時間がたつのが早いと感じるという話をよく聞くけれど、あれは、身体的能力が落ちてきて、昔なら1時間でできたことが倍近くかかってしまう、このため、たったこれだけのことしかしていないのに、もうこんな時間になっていると思って「なんて時間がたつのが早いんだろう」ということになるのだと話していた。
 それで思い出したのは、入院中の時間の感覚のこと。3月29日付の「入院経過」にも少し書いたことなのだが、病院の時間はゆったり流れる。ところが、暇で暇で困ったなんて全然感じないのが不思議でならなかった。
 起床朝6時から食事までですることといえば、洗面、お湯汲み、ニュースを観ること。8時台は朝食とリハビリ行きの準備、9時台、一所懸命リハビリ。10時台、点滴か昼寝。これで昼食。一休みの後、午後のリハビリプールと昼寝。6時から夕飯、7時、見舞いにきた配偶者と雑談し、8時台は、洗面、寝る準備で大忙し。9時にはしっかり消灯。
 さっさとすれば、全体としてたいした作業でもないのに、それがけっこう忙しいと感じてしまう。
 このタモリの解説を聞いて、合点がいった。不思議でもなんでもない。身体的能力が低下しているから、すべてがのろく時間がかかるのだ。そのため時間的にも気持ち的にも余裕がなくなり、忙しく感じてしまうのだ。リハビリの運動の後は疲れ果て、仮眠が必要。その睡眠も含めて一セットの作業といったことになるのだ。
  腰を痛めて、動作が鈍くなったため、例えば、試験監督に遅れたなどの弊害がでたと以前書いたが、運動能力の低下という物理的障害が、こうした時間の把握という精神的なものにも大きな影響を与えるものなのだということに今回気がづいた。

 

 2005年04月01日
  新年度開始  今飲んでいる薬を調べる

 新年度、晴天で温暖な1日。始動ということで、6時前には起床、7時すぎには出立と、余裕を持ちすぎくらいの時間で動いた。1年半ぶりに徒歩で職場に。腰を悪くする前よりも、1,5倍ほどの時間がかかったが、問題なく到着できた。今後、職場へは、荷物がある時以外は、できるだけ歩いていくことにする。(と、年度初めに宣言しておく。いかにも宣言にふさわしい日である。)
 腰は手術によって改善された部分もあり、ある程度の距離が歩けるようになったりはしたが、未だに骨自体が痛い。与えられた骨粗鬆症の薬「ボナロン」は、朝起きたらすぐに飲み、横になってはいけない、30分は飲み食い禁止というもの。勤め人の忙しい朝にはなかなか辛い縛りである。

  数日前、ご無沙汰だった散髪屋さんにいった。(長時間座っているのが怖かったので、一番短く終わる坊主にした。当分、坊主ルックを予定)その時、そこの懇意にしているおばあちゃんも立ち仕事なので腰が痛くなり、ボナロンを愛用しているとのことがわかって、これ幸い、色々情報を仕入れた。彼女は朝のその時間、ご近所散歩をしてすごしているのだという。どのくらいで改善がみられたかと聞くと、2年目くらいからとのこと。その後も、高齢だから転んだりしたら危ない、飲んでおいた方がよいと言われ飲みつづけているとのこと。どうも長期戦を覚悟しなければいけないようだ。半年ごとの骨密度測定で徐々に数値が上がり、今では「大丈夫ライン」まで戻したという。
 インターネットで愚妻が調べたところ、この薬はカルシウム吸収を促進するもので、発売元の製薬会社(帝人ファーマ)から、病院向け販促グッズとして、「ボナロンくん」というキャラクターまであるという。私も見たら、ホントだ。両端が二股に膨れている古典的骨の格好をしている。儲かっているんだろうなあ。だって、飲み続ける薬だもの。一番儲かる。

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